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小野尻庵通信 – 雑感

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ついの住処・・・ふる里の創造』と題して
近畿修猷会発行新聞(修猷館高校関西地区同窓会機関紙)42号への寄稿:H21年9月
六角穴付ボルト ユニファイねじ並目(UNC) (ステンレス)(小箱) 大阪魂 #4×3"
3世代2世帯(2地域:都会と田舎)居住空間の実現
現役が済んだら帰る田舎・ふる里があるの実現
福岡を離れて大阪の会社に就職、福岡勤務の時、伊丹と板付を数え切れないほど往復した。機上から眺める大阪の発展には目を見張るものがあった。生来の体験からか「自然や天命、神の手には抗えないもの」を感じていて、人の力、エネルギーもさることながら自然との調和、逆らわない生き方をしたいとも強く想った。  我家は、瀋陽市(奉天)から引揚げて、昭和24年、中央区地行西町の市営住宅に入居できるまでは、大橋や白木原の農家の蔵、納屋などが住処だった。市営住宅は6畳、4畳半、3畳、台所の狭い物だったが家復興の石杖となった。もうひとつは、先代からの遺産で父出生の那珂川町山田の300坪の屋敷地。それと修猷館。 高校卒業までは腹を満たす行動が今言うアウトドアレジャーだった。 小4になると屋敷地での農作業を手伝いに自転車で通った。樋井川沿いに鳥飼、堤、油山の手前で左折、桧原、屋形原を経てやよい坂を下り、現人橋から筑紫耶馬溪への道をたどり、那珂川に架かる松尾橋を渡ると菩提寺(浄光寺)があり、左に折れた。帰りは登りになるやよい坂では、よく転倒した。夕暮れの中でジャガイモ、玉葱、竹の子、柿・・・幾度となく拾い集めた。片道2時間、帰宅は日もとっぷり暮れ8時を回っていた。  また、地行の浜から百道海水浴場の廃船ボートで釣りをした。室見川沖から西公園下まで、博多湾の小魚で蛋白源を凌いだ。晩秋には飯盛山まで山芋掘りにも出かけた。 福岡には海も山河もあった。 学業は今一であったが、幸い自宅から通える母校・修猷に受かり、今があると思う。私学費は出ないと高校は「熊本国立電波」、大学は「気象大学」も受験した。いずれも指定就職先に進めば学費免除の学校だ。こちらに進んでいたらどんな人生を送っていただろうか?  弟も大学に行くことになり、あるとき親父に「長男のお前には一応相談するが、山田の屋敷地は手放そうと思う」と問われた。苦汁の決断だったろう。  長男だからとの理由だけで福岡で数度の見合いをしたが縁なく、職場結婚となった。自然に包まれた『住処』を造りたいと無理をした。河内長野青葉台の分譲住宅、淀屋橋まで一時間40分の通勤であった。  親父の病を機に、運動が実り昭和51年5月福岡転勤が実現した。暑さが残る9月7日肺動脈が破裂した。享年60歳だった。短い親孝行だった。  このころ福岡は博多湾(地行百道)の埋立計画が進行、連動し市営住宅の立退きも決まっていた。残された母に尽くそうと原北団地の近く小田部で同居を始めた。仕事は、修猷、九大の同期先輩のお陰で拡大できた。 昭和59年4月、大阪本社転勤が決まった。これで福岡には戻れないと母に伝え、尋ねたら「付いて来る」と言う。今度は江坂の本社に近い箕面に決めたが、東京にいる弟や妹家族を泊めれる本家屋敷にはほど遠かった。 親父の人生を振り返ると『6歳で孤児、大陸に夢破れ、3人の子育てに故郷山田を失い孫の成長も見ずの短い人生』、私も男の大厄にかかり『ところで自分は親の歳まで生きれるだろうか?!』との想いから、何かを成さねばと『帰れない福岡・山田(ふる里)を関西に造ろう』と心に決めた。  短い人生2度生きれなくても2つ生きようと、週末農業の出来る山田的環境を求めた。自転車と車の違いはあるが、1時間半で箕面から通える所、たどり着いたのが、ここ丹波市山南町小野尻。金帰月来の週末農業を始めた。親父の歳を越え、退職と同時に「小野尻庵」と洒落込み隠居先とすることが出来た。  小野尻庵も敷地700坪、建坪(母屋離れ)300㎡、田畑1町5反(借地含)、の農家に転進できた。 現在、小野尻庵は丹波の田舎暮らし・農業体験、里山散策など多彩なプログラムを準備し、都会の人の命の洗濯の場・農家民宿として開放している。 近畿在住の三七同期はもとより、有縁の方がたで、先客万来、宴は絶えない。なかでも、尼崎・西宮に住む息子・娘家族が帰庵し農作業に汗しだした。子供達も、ようやく自然の力に畏敬の念を持って処し始めた気がする。 近畿修猷会:近畿修猷新聞(同窓会誌)42号:平成21年9月発行 寄稿

生かされて活きる

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三和銀行OB会 会報機関誌「和光」への寄稿 平成20年11月
 平成13年に転籍先のTISを切り上げ、ここ「丹波市山南町小野尻」で新規就農した。職場結婚した三紀子と元気に田舎暮らしを満喫している。(インターネットHP・・小野尻庵をご参照)。 標記の言葉に出会って4年になる。字の上手な義兄から「どう」と示された色紙に書かれていた。「辯兄が書いたの?」「そうだ」との返事。義兄が大きな手術から生還した時だった。私も親父の享年をクリヤーし、今生きていることの有難さ、偶然さ、努力や辛抱、気配りだけでは図れない「神の手=人知の及ばないもの・こと」を強く意識し始めていたので、私の分も書いてもらった。 私も、今思えば何故か生かされてきた感がする。九死に一生と言う言葉があるが、落命してもおかしくない病気や事故はこれまで幾度となくあった。今でも体に残る傷跡がある。零歳時のみぞおちの「シップ」の焼けど痕、両太もものリンゲル注射の痕は危篤状態を切り抜けた勲章だと思っている。就学前、川で溺れたが仮死状態で助けられ生還できた。お礼の品が《ぶどう2房》だったのを覚えている。昭和23年、当時の命の対価はそんなものだったのかも。 小学6年までは結核などで2年間体育授業を見学で過ごした。この時期は自分でも治って成人できるのかと弱気に沈む時もあった。そんな時、親父は私の胸をはだけ、体の傷跡の話や満州から苦労して連れ帰った話をして励ましてくれた。 中学生になると見違えたように健康になり、どんな無理も利くようになって、体力には自信を持つようになった。就職後に、29歳、32歳で心不全で救急車の世話に、他にも胆嚢、腎臓不全で病院の世話になった。心不全は立派な臨死体験ではあったが、仕事仕事で深刻には受けとめなかった。 五十代後半、特に親父の享年(60歳)を越えられるかどうかという頃、仕事も良いが短い命、遣りたい事をしてみたいと思うようになり、我儘を言って退職した。 田舎暮らし(農業=停年のない自由業)に踏み切って七年、親父の歳を越えることが出来、「生かされて活きる」の心境に達してからは「生かされている間は生きる」と生死観も固まってきた。 田舎で暮らすと、何時も、植物・動物(おもに害虫)の生死と対峙する。過酷な自然・気象に晒されることはもとより、人様の蛮行(草刈、間引き、手、足での殺戮)、相手は「アッ」と言って昇天していく。そんな時、ふと農作業の手を止めて思う。『「お前ももういいよ」と、神の手が伸び、突然、お役御免で摘み取られる日がくる』と。「抗えない」、生かされていることに感謝し日々を大切に活かすことで「生かして!」と、天を仰ぎ、念じながら、今を生きていることを活かして大事に過ごしている。

農作業と言葉(根回し!根張り?)思考

何か事を成そうとするとき、上司から「根回しは済んだか 」と
問われる場面に遭遇したことがない人はいないと思う。このとき使う「根回し」の語源は農業/造園業で樹木の移植の1年も前から準備する作業が<根回し>である。大樹ほど時間を掛けてやる。大きな根を切って樹高の10%程度の直径で掘りあがるように、その中に細根がはびこる(1年がかり)ようにしておき、掘り上げた根に藁紐で籠も巻きして根回しは完了する。この根回しの周到さの良し悪しで、移植の成功の可否も決まる ビジネスも同様で、大きな企画ほど根回し/事前調整を入念に遣っていないと、根回しが足りなかったとなって、進むことも進まなくなる。
 ビジネスで根回しとは良く言ったもんだと思う。
 農家仲間からお宅のピーマンは「根張りがよさそうね」と褒められることがある。葉の色や樹形を見て、肥やしが良く効いた状態はすぐわかる。施肥が十分でも根張りがよくないと吸収できない。苗を求めるときも、根張りは必ずチェックしないといけない。根張りが良いと、寒さ暑さ/乾燥にも強く対応力も増し、収量も増す。よそで収穫終わりと言うころにもまだネバって実をつけてくれる。そろそろ諦めて止めるところをネバって収穫が続けられるのは根張りがいいからだ。
 人が我慢強く諦めずに物事を続けられる力は、どこから出てくるのだろうか。「あの人には粘りがある」というよりも「この人は根張りが良い」と言われると胸を張りたくなる。土にまみれたせいかな! 記 

ご存知でしたか? 改正農薬法

農薬の安全な使用が法律で義務付けられました。
『農薬取締法改正(施行)』
私は、食の安全を求め、先ずは米・野菜で「魁より始めよ」と営農に挑戦し始めました。
この度、JAの栽培セミナーに参加して、食の安全に行政も動き始めたことを知りました。
これで日本で生産されたものは安心できそうです。
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◎農薬使用は、ラベルに書いてある情報を正しく守る。
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①その農薬に適用がある作物だけに使用する
②その作物に対して定められた使用量、使用時期、総使用回数を守る
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 JAでは栽培セミナーと営農指導を徹底し、作物ごとの使用農薬のガイドを示し、栽培日誌の記帳運動を進め、「日誌」の提示を納入条件としています。
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◎「生産履歴記帳運動」の手順のあらまし
①生産基準に基づく生産
 *生産基準の設定:JAでは、地域にあった適切な生産基準を設定する。
 *JAとの協定と圃場登録:JAの提示する生産基準に従って生産を行うことを、
  JAと協定を結び、又、対象となる圃場を登録する。
 *生産基準に基づく生産の実施:協定に従って、農産物を生産する。
②生産内容の日誌への記帳
 *農薬の使用状況などの生産活動の内容を、JAから配布される日誌(記帳 様式)
  に記入する。
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 *生産者は、登録した圃場で生産された農作物を、生産規格ごとに分別し て、JAに出荷する。
 *JAは、集荷した農産物を、生産規格ごとに分別して出荷する。
④情報開示
 *生産者は記帳した日誌を定められた日までにJAに提出する。
 *JAでは、記帳内容を再点検し、取引先や消費者に生産情報を提供する。
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   このやり方は、一部民間企業やCOOPが先行し実施していましたが、JAが組織的に始めた事で、農業生産者が100%捕捉されると思われます。
 生産者の不正記載・不正申告が無いことを祈るばかりですが、収穫量や見てくれの低下と、労力、コストの増加は価格に反映されることでしょう。既にスーパーなどでは、国産は輸入より2~3割り高めで並びはじめています。
 私は国産しか手を出しません。
 体験して痛感していますが、たとえば、除草剤を使わず、マルチがけでやろうとすると、労力は3倍以上必要になります。ことごと左様なのです。
 JAでは併せて、「地産地消」(=「産地の近い土地で出来るだけ消費する」)運動も始めています。
 私はもう一つ、「旬を大切に」(=農作物が自然の摂理で成長した恵みを頂く)運動も加えたいと思います。 新鮮なものが、防腐剤・ハーベスト処理なしで美味しいに決まっています。
 私は『JAの新しい営農指導を遵守し生産活動をしていけば、何とか間違えずに済みそうだ』と確信をもちました。   記  

意思を持って生きる『WILL人生』 

青少年に贈る図書 わが道を歩む 九州版(上)
 文教図書出版 寄稿文より
 父親は六歳で両親を失い、戸籍上の家長となった。15歳まで叔父達の後見の下で長じ、苦学のうえ、郵政の地方下級官吏になった。新天地満州へわたり、私は奉天市(現瀋陽市)で生まれた。夢破れ、昭和21年夏、母、弟と4人で引揚げ裸から出直した。床あり畳の部屋で寝起きできるようになったのは私が小学校に入学する年からである。私はそんな父親を乗り越えるために極端な反抗期を経験した。
 中学までは、父親に畑仕事、竹の子/山芋堀や釣をにつれまわされた。思えば、生活の糧の確保に繋がることばかりであった。わたしの趣味はこの頃の影響が大きい。高校の進路決定のころから親父の干渉が気になりだした。我々の世代の親は皆、学歴社会の壁を感じ、自分が満たされなかった分、子供にはさせたくないという思いがあったと思う。
「勉強せよ!、勉強せよ!」とよく言われだした。
 高校進学については割愛するが、徒歩通学できる福岡県立修猷館高等学校に進学した。三年間、部活は勿論、文化祭、運動会の準備と目一杯活動し学校にも幾度となく泊り込んだ。父親は現役での進学を望み「受験勉強への専念」を迫って来た。「普通の高校生た活をしたい、現役で志望校に受からなければ、それはそれで仕方ない、そんなに学歴が必要なのであれば浪人する」これが私の主張であった。父親は「気象大学」の受験を強要してきた。「気象大学」は気象庁へ就職して大学へ通うようなもので、官費で行けるようなシステムになっていた。私の得意科目に偏重し私のために用意された大学のようで合格した。親父はここへの進学を強く希望した。現役の終盤は自分の主張を正当化することと、親父との神経戦で消耗し受験勉強に集中できずじまいで終わった。受験勉強としては不完全燃焼感もあり「父からの提示が素直に受け入れられず生理的に嫌ったことと、学友と同じ大学に行きたい望み」があって、私は「気象大学は再受験すること、予備校費用は要らない宅浪する」ことを条件に一年間猶予を貰った。
 高校時代の三年間は親父とはよく口論になり家出寸前の危機が何度もあった。父親からの言葉で一番つらく忘れられないのは“長男失格”「分からず屋のお前は長男ではあるが、親の諭が伝わらぬ、もうお前に頼ろうとは思わない、三角家には幸いもう一人男の子がいるし、・・・・」とのくだりだった。この時はさすがに「ぐれて遣ろうじゃないか!」と切れかかった。私も親父以上に悪態をついた。冷静になれば家計に余裕がないこともわかっていた。頭に血が上ると「守銭奴!、金持って天国に行けば言い!!」などと遣り合っていた。素直になれない私を親父はどんな気持ちで診ていたのだろうか。
 親父との葛藤は私が九大に進学し解消した。
 修士へは、バイトと奨学金で進学できた。そこで、OR、システム工学、自動制御などを学んだ。就職は銀行が理工系に門戸を開き始めた時で三和銀行にした。制御理論を経済モデル/金融モデルに応用してみたかった。計量経済と言う熟語が出始めた頃だった。
 「工学部で修士まで出て」と、わたしの選択に恩師、先輩、同僚から言われたが、「自分で決めた、選んだことだ」と言う拠り所が「逃避」を許さなかった。その後の仕事の選択・遣り方は「こうしましょう!、したい!」の[WILL人生]で遣ってきた。
 親父、恩師、上司、先輩、先達から「こやつ本気かな?」と「否定から始まる意見」で本気度を測られ、彼らの掌の中で頑張ってきたのかもしれない。  わが『WILL人生』に手心を加えながら、否定・対案を掲げて頂いた先輩、上司、恩師および今は亡き親父には、いまだ報いきれず『謝念』あるのみである。

座右の銘  腹八分

(社)関西経済連合会 機関紙 「関経連」‘95 No1 第369号 
特集/座右の銘  寄稿文
私の場合は「座右の銘」といえるほどのものかどうか、その時々に「為せば成る・・」とか「執念」とか「流汗絞X」(X:知恵を意味する造字)を表に出してきたように思う。一方で、自分の力の及ばぬところでは、亀井勝一郎の思想「愛、謝念、無常、諦観、悟り」といったあたりをよりどころに凌いできたようにも思う。
 私も昭和一桁に追随、前を向き、上を見て、がむしゃらに走って来た昭和十代の一人である。そんななかで、何時の頃か、正月、雑煮を前にすると、祖父の面影とともに「腹八分事件」が思い出されるようになった。
 それは、昭和26年の元旦、夕餉のお膳に直った時のことである。寡黙な祖父から「治ったか、腹八分だよ、何でもそうだ」と問い諭された。
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 妹が汽車に乗れるようになった頃から、母は喰い盛りに入った私と弟も連れ、春、夏、冬、学校が休みになるとすぐ、四人で母の実家に里帰りした。
 暮には25日か26日が移動日となっていた。博多駅から小倉まわりで、当時、宇佐駅まで6時間かかった。北九州工業地帯の空の色(薄暗く黄色く赤茶けた)、八幡製鉄所のうまくできた石炭運搬リフト、紫川の川の色、汽車の混みようはわすれられない。今はよくなり、当時を推し測ることはできない。小倉で日豊線に乗り換えると、そこは大分弁、祖父の里に入ったことを実感した。
 30日には、父も伯父もそろい、その日は餅つきの日と決まっていた。母は伯父と二人兄妹で、伯父の方は一人息子だったので、そこでは従兄をいれて四人兄弟になった。年に一度だけ、冬休みは正月三が日を入れて五日間、祖父を家長とする賑やかな楽しい十人家族になった。
 25年のくれも、近所の親戚も一緒になり、朝から晩まで餅つきだった。大人と子供総勢30人くらいで、ホイッホイ、ホイッホイと掛け声も勇ましく活気にあふれ、まさにお祭りであった。大人も楽しみ、男はちびちび遣りながら交代で杵を持ち、女はつきあげた餅を手際よくちぎり、鏡餅に、小餅にと仕立て上げていく。子供は危ないとか邪魔だとか言われ追い払われながらも、あまり離れずに、蒸篭の火を見ろとか、薪を運べとか、水を持って来いとか、時たま発せられる指示に、先を争い、小競り合いをしながら手伝いをした。
 子供の飽き具合を見てか、「あんこ餅だ」皆食べにおいでとか、手洗って小餅もみを手伝えとかの声もかかった。大人は、あんこ餅もたべたが素餅をうまそうに食べた。あんこ餅には沢庵とお茶が口に合った。素餅はつきたての餅(小麦粉にまぶす前の)を酢醤油につけて食べた。美味かった。今でも餅の食べ方はこれが一番と思っている。母には「食べ過ぎだよ、もう止めなさい」と何度も言われた。「どうなっても知らんよ」とも言われたと思う。いつも、母は何度か目にはそういった。そして結果を見て「ほら、だから」といった顔をした。それが母の育児スタイルだった。それでも、この場は子供に有利な状況で周りの大人にねだって、腹の皮が突っ張って痛くなるほど食べた。
 てきめん、翌朝、夜明け前に腹痛が始まり我慢しきれず母を起こした。寒く暗い庭を片手に提灯を持つ母に手を引かれ、厠に行く羽目になった。農家の厠は母屋にはなく納屋や馬小屋の近くにあった。朝食時にはもう下痢の兆しはあったが、隠して食べた。
 大晦日の夕食は、それは楽しく、一年に一度の豪華な料理だった。それにありつきたかった。朝食後から本格的な下痢になり厠へ通い詰めた。夕刻、胃腸が空になって止まった。昼は抜いたし、これで夕食に間に合ったと思い始めた時、母が額を触り、熱があるといいだし、赤痢じゃないかコレラじゃないかと騒ぎになった。祖父の命令だと言うことで、寝間着に着せ替えられて納戸に寝かされた。
 とうとう、大晦日の夕餉がはじまり、談笑と美味そうな料理の匂いが襖越しに漏れる。年に一度の鶏肉、蒲鉾の入った茶碗蒸、白ご飯、毎年繰り返されたこのシーンは、今でも目をつぶれば私の脳裏にバーチャルリアリティーとして再現できるくらいなので、頭から布団を被ったくらいでは遮れない。ただ、談笑だけは和らげられた。その漏れくる会話が一度だけ、私を気遣う大人達の声になった。「修ちゃん大丈夫?」「おとなしいね」「大丈夫?」「下痢は絶食が一番!」「身からでた錆や、ほっとけ!!」、一瞬の間で会話は元に戻った。
 宴も終りのころ、母が入ってきて「どう?」と布団越しに尋ねてくれた。「『身から出た錆』って何や?」母は答えず「我慢しなさい」とだけ言って、布団を整えて出て行った。
 明けて元旦、朝と昼は重湯の配膳があり、床ですすった。この日は、兄弟でいつもの様に外で遊べないのがこたえた。元日の夕食は一年で二番目の贅沢なおせち料理の食べ始めなのだが、私は既に諦めていた。
 当時、お膳は応接机とちゃぶ台の二つに祖母以下9人が決められた所に、祖父は別格で、四角い縁付きの火鉢に全員が見える場所に座った。火鉢には、既に晩酌セットが置かれている。鉄瓶に入っている酒の燗の加減は自分で測って、チビチビ始める。是が夕餉の合図でもあった。皆の配膳ができると、伯母か母が膳に着くように声を掛けて回る。そろったところで、祖母の「頂きます」を和唱して食事が始まる。食事中の会話は自由であったが、祖父はまったく話さず聞き手だった。
 この日は、母が寝間に綿入れを持ってきて、私も膳に直れと着かせてくれた。私が膳に着くと、祖母ではなく祖父が私を見て「腹八分」の話をしてくれた。「喰い過ぎてバチが当たったのだ」と言われているのだと頷いた。一件落着となった。
 皆とは違う三分粥と梅干の膳に箸を運びながらも、昨日のような食に対する未練も消え、「腹八分」をかみ締めていた。  一生忘れられない記憶となっているが、この後も無茶をして、三度ほど命を落としかけた。行き過ぎ、遣り過ぎに制動をかける諭しの言葉として分かり、「物事の限界や全体、十分目」が見えだしたのは、同じ年頃の子を持つようになってからのことだと思う。
バブル崩壊は日本経済の「身から出た錆」と認識し、これからは、日本経済の大局を飽和と認識し、「腹八分」の精神でことにあたれば過たずに済むかも知れない。


 記

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同好クラブ会員募集&活動報告寄稿文
近畿修猷釣りクラブは、海を愛し自然を大切にする釣り好き同窓生が集まり、創設4年になります。現在会員は初心者からベテランまで約50名です。年間5~6回の「釣行」と釣行1週間前の「釣り談義教室」を楽しんでいます。「釣行」は防波堤での五目釣りから船での大物釣りまでバラエティーに富んだ企画になっています。費用は参加者での割り勘会費。規則はゴミを残さないことだけです。釣りは大自然を満喫しリフレッシユに最高です。
今年の幕開けは、5月13日に南紀田辺の海の釣堀『釣道場』で釣行の基本を振り返りました。釣果は①ポイント、②棚、③えさ、④しかけの順で決まります。釣堀と言えどもポイントが出来ます。潮の流れ、魚の習性、放流魚の組み合わせなども加わりポイント探しには奥深いものがあります。棚も同じで、同じ魚でも浮いたり沈んだり大変です。魚がいる場所(①・②狭義のポイント)を突きとめて初めて「えさ」や「しかけ」の良し悪しがものを言い始めます。
「釣り人は短気、短気は損気」と流布されていますが『短気は長所、短気は益気』(三角短気長所論)なのです。「釣果と会社業績成果は正比例(三角釣人登用理論)」します。「ポイント」は市場・需要、「えさ」は商品・サービス(販売・受注品目)、「しかけ」は提案書・企画書と置き換えてみて下さい。市場や需要動向を読めずに行き当たりばったりで(やみくも)に営業活動・事業活動しても(餌のついた釣り糸をたれても)成果は期待できません。『釣れる釣り人は企業に戻れば、分析力、調査力は抜群』なのです。
 何故‘抜群’なのかと言えば、釣り人はポイントの適否判断、棚探し、餌の吟味など、神経を使い、頭を使い短時間に処理できるからです。即ち「良く気がつく」「思考を重ね先読みできる人」なのです。かかる人は思考のテンポが合わない時『いらいら』し始めます。このためまま「短気」と揶揄されますが「短気な人ほど気がつく、気配りできる、思慮が足りている」のです。優秀な板前は気が短い、気が短くないと板前は務まらぬと言います。営業はもとよりすべての職種に求められる資質なのです。 さあ皆さん、釣りクラブにお越しください。『気配りのできる、思慮の足りた人』の集まりです。(昭和37年卒)
近畿修猷会:近畿在住の高校同窓会誌:平成13年9月版 第26号より
ホームページURL:「http://www.cwo.zaq.ne.jp/tim038/Tsuri.html」 


肥満退治 半日断食の実行 

昨年10月の健康診断で、肥え過ぎの影響が数値に出始めた。
高血圧、高血脂症、高尿酸、左目眼底出血、・・・根因は美食、過食 そのうち遣らなければと思っていましたが。
これだけデータを突きつけられたら始めざるをえない。
始めてみると良いことづくめ!
①食費減額効果大
②収穫野菜が目に見えて捌ける
③買物時に商品を吟味する(健康面からの鮮度、添加物、製法、産地など) などなど。
参考図書
奇跡が起こる半日断食 甲田光雄    マキノ出版
食べるな危険     日本子孫基金  講談社
この2冊を素読したら、新鮮無農薬栽培への取り組みが間違いでなかったとの 確信がもてた。
早く骨折を治し野良に出たい。


(月曜)

目標は「挑戦的かつ到達可能なももの」に

平成13年度も下期に入りました。暦がめくれただけでは景気も良くなりません。
今日は会社に出てきました。一日中の会議でした。
業績の確認と次期どうするかがテーマでした。役目柄、期間対応の出と入りの再確認をお願いしました。
 昨日は、高橋さん、イチローさんと世界記録の樹立おめでとう御座います。
道を極めた方に説教は禁物とは思いますが、、、ほどほどに。
人間「死ぬために生まれた」ようなものですが、死して止むような目標や背負荷はさっさと下ろしましょう。
そのような目標を聞くことも、他の人に課すことも止めましょう。
目標は、 
「挑戦的でかつ到達可能なももの」にしておきましょう。

(月曜)


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